狂い人の賛歌



私以外を見る眼なんていらない、抉ってしまえばいい



 悪魔は赤い目をしていた。
「嗚呼、ご機嫌麗しゅう、罪に濡れた小国の小さな独裁者さま。」
 雪の降るバルコニーの縁に立つ、黒い外套を纏った、人の形をした影。
「噂に違わぬ、」
 灰色の空を背に、赤い目が鈍く光る。言葉の途中で影は小さく「ハハハ。」笑い声を漏らした。
「このような話、態態閣下の耳に入れる必要もありますまい。」
 かように得体の知れぬ人物の口を通さずとも、己が身の風評など知っている。
 血も涙もなく、思うものは国民や国ではなく己が身のみ。余りにも愚かで、余りにも幼い独裁者。
「何者だ。」
 開け放った窓辺に立ったまま、赤い目をした影に問う。影は、にやりと嗤った様に見えた。
「ご機嫌麗しゅう、閣下。わたくし、ヴィルヘルムと申します。以後お見知りおきを。」
 影は外套を風で舞わせながら、音もなく雪の積もったバルコニーへ降り立つ。軽やかに数歩歩み寄り、伸ばせば手が触れるほどの距離にまで近付くと、そのまま当たり前のように跪いた。影の表情を雪明りが照らす。赤い目だけが露出する、髑髏の仮面。髑髏は明らかに人間のそれではなく、羊や山羊を思わせる形をしている。
「貴様は顔も見せられぬのか。誰かは知らぬが、躾が成っておらんな。その馬鹿げた仮面は癪に障る。」
「ハハハ。閣下はわたくしの顔がお気に召さないご様子。」
「この国では道化でもそのように品のない仮面は被らぬ。」
「確かに閣下の可愛らしいお顔には似合いますまい。」
「貴様、口を慎め。」
「真実を述べたまでのこと。」
「どの口が戯けたことを嘯くか。」
「おやおや、閣下はご存知ない。悪魔は真実しか口に致しません。」
 硬い革靴を履いた足を振り上げ、目の前に跪く髑髏の仮面を蹴り上げる。しかし赤い目の男の顔は愚か、仮面すらも微動だにせず、代わりに白い手袋を着けた手でゆっくりと払われた。
「統率者は濫りに感情を表に出さないものです。それに閣下の制裁を受けるなど、わたくしにはなんと勿体のないこと。」
 革靴の先に軽く口を付け、男はまた「ハハハ。」嗤った。髑髏の眼窩の間から赤い目線が向けられる。
「貴様、何者だ。」
「わたくし、ヴィルヘルムと申します。」
「そんなことは問うてはおらん。」
「何者であるかと問われた故、答えたまで。ハハハ。閣下がどのような答えを望んでいらっしゃるのか、わたくしには測りかねる。」
 黒い外套を纏い、赤い瞳を持つ髑髏の仮面の男。目の前に跪き、その名をヴィルヘルムと名乗る道化の様な姿の男。心地のよい低音、嘲笑う様な声で己を悪魔だと嘯く。月の様に熟れた果実の様に散る血飛沫の様に赤い瞳、舐る様な視線。
「わたくし今宵は是非とも閣下にお伝えしたいことが御座いまして、僭越ながらこうして見えている次第。」
 跪き見上げたままで悪魔は言う。
「閣下は丁度一月後に夭死致します。敵兵の放つ業火、民衆の憎悪の炎、閣下は様様な炎に身を焦がされ、焼死致します。」
 それは歌の様に、
「わたくしは閣下を迎えに参りました。」
 誘う様に、
「但し、いまでは御座いません。ハハハ。」
 惑わす様に、
「閣下が夭死なさった後、魂だけをお迎えに上がります。」
 赤い目が「さあて。」にやりと嗤う。
「わたくし、ヴィルヘルムと申します。生まれて千と幾年か、悪魔の心臓と人間の魂と美しい音楽だけを食らって生きて参りました。」
 膝をついたまま見上げてくる髑髏の眼窩の奥は、
「以後お見知りおきを。極、卒、閣下。」
 赤い色の他には、なにもなかった。赤い目玉も嗤う「ハハハ。」瞳も虚空すらも虚無すらも。血の色をした舐る様な視線の他には。










(060902*改稿0909

狂い人の賛歌
壱  私以外を見る眼なんていらない、抉ってしまえばいい
弐  私以外に笑い掛ける顔なんていらない、剥がしてしまえばいい
参  私以外に囁く声なんていらない、剣を突き立ててしまえばいい
四  私以外に触れる手なんていらない、もぎ取ってしまえばいい
五  私以外を愛するあなたなんて要らない、殺してしまえばいい
配布元*207β