わたしの通う学校は県下ではそこそこ名の知れた進学校で、制服が全く可愛くも格好良くもないというのに入試の倍率だけは高かった。紺色の特徴のないセーラーと、黒の学ラン。体育のときのジャージは群青とかくすんだ緑とかぱっとしない色ばっかり。だけど黒い髪をただ二つに結っただけのわたしには丁度いいのかもしれない。自分でもレトロでマッチはしていると思う。
 小豆色のジャージと紺色で膝まであるスカートを履いて、わたしは今日もその扉を開いた。広がるスカートの裾と黒い髪は、今日も変わらず風が吹いているという証。




ギターと紙飛行機、夕焼けの下




 扉を開けるとそこは別世界。コンクリートに固められた校舎から解き放たれて、正面に見えるのは緑色のフェンスと遠くの山、振り返り見上げると見える貯水タンクの頭の方、仰ぐ空は果てない夕焼けと赤い雲。下から聞こえる部活の声援とどこかから聴こえる吹奏楽の練習をバックグラウンドにして、わたしは誰もいない屋上に飛び出した。がこんと重たく閉まる扉の音は、歓迎の声に聴こえる。
 途端。
 頭の上から、声がした。
 それは歌声。
 なにかの音に紛れて、周りの騒音に紛れて、叫ぶように一心に歌う声。
 聴いたこともないような。
 見回してもそこには誰の姿もなくて、それでも歌声は頭の上から聴こえてくる。誰もいないはずなのに。驚いて貯水タンクの方を振り返るけれど、わたしの身長ではなにも見えない。仕方がなしにフェンスに駆け寄って背中を預け、少し離れた貯水タンクを見上げた。風でスカートがフェンスに張り付く。どうにか誰かがいることは分かったものの依然顔は見えず仕舞い、後ろ手にフェンスに手をかけて、つま先で立つ。錆び付いたフェンスのささくれが掌に痛くて顔を顰めたとき、丁度顔を上げた貯水タンクのひとと、目が合った。
 そして、歌が止んで、わたしは息を呑んだ。
「ナカジくん、」
 思わず名前を呟く。相手は茶色のギターに添えた手をびたリと止めて、わたしと同じように呆けた顔をして口をぱくぱくしていた。
 先に恐慌から冷めたのは多分わたしの方だった。呆けるナカジくんから目線を外して、フェンスから降りてとんとコンクリートの床に下り、今度はゆっくりと貯水タンクの方に向かう。出入り口のドアがついているところとは別の壁に掛かった梯子を伝って上に上ると、そこにはさっきと全く同じ体勢で立つナカジくんの背中が見えた。
「ナカジくん。」
 なにを言ったらいいのか分からなくて、一先ず名前を呼ぶ。
 緩慢に振り返ったナカジくんの表情は、呆けたさっきの表情から、いつものと同じものに戻っていた。それは、例えるとしたら、氷を浮かべた水みたいな感じの、冷たい無表情。こくりと微かな会釈をされて、わたしは少しだけ足元が凍りつく感じがした。
 ナカジくんはいつも学校で起こる色色なことをずっと遠くから眺めてる感じがするひとで、笑ったところも、怒ったところも、泣いたり叫んだりしてるところも、見たことがないし、少し不機嫌そうな表情が崩れたところなんて見たことがなかった。いつもひとり教室で本を読んでいたりして、誰かと一緒にいるところや、まして楽しそうに話をしているところなどは想像も出来ない。孤独を絵に描いたような、氷水の表情をしているひと。
 だと、思ってた。
「うた、凄いね。初めて知った。」
 だけど、違った。
 少し怯んだように崩れるナカジくんの表情に、思わずわたしは小さくだけど笑ってしまった。
「そりゃ、どうも。」
 口元を隠すように巻かれたマフラーの奥から、歌っていたときとは比べ物にならないくらいに消えそうな声で返事が返ってくる。黒い淵の眼鏡の奥で、フレームに負けないくらい真っ黒な目が泳いでいた。
「鍵、掛けてた筈だけど。」
「うん、鍵、掛かってた。でもわたし合鍵持ってるもん。」
 言ってジャージのポケットに入れてた鍵を掲げて見せると、ナカジくんはぐっと小さく唸って眉を顰めた。
「だけど、わたしだってここ、誰もいないと思ったのに。」
「鍵、持ってる。」
「そっか。」
 いつのまにか座り込んでギターを抱えているナカジくんの横に同じように座ると、一瞬だけ嫌そうに眉を顰められた気がしたけど、気にしない。ポケットに鍵を戻して、横座りをした膝にスカートの裾をそろえて見上げた空は相変わらず赤い。わたしは空を見上げて、ナカジくんはかしゃかしゃとギターを鳴らして、なにを言ったらいいのか分からなかったからそのままその音に耳を傾けた。
「ねえ、唄わないの?」
 訊いても返事は返ってこない。
「うた、凄かったのに。」
 かしゃかしゃ。アンプを通さないエレキギターの不思議な音。風に舞い上がったナカジくんのマフラーが、一瞬だけ視界に映る。
 しょうがないからわたしもここに来た目的を果たしちゃおうかな。
「なに、してんだ?」
 いつの間にかギターの音が止んでいて、不審そうな顔をしたナカジくんがわたしの手元を覗き込んでいた。
「紙飛行機。」
「見れば分かる。」
 数学のノートの後ろの方をちぎって持ってきて、いまここで折った、紙飛行機。
「飛ばすの、これ、ここから。風に乗って、遠くに行くんだよ。ほら。」
 言って立ち上がって、腕を伸ばして紙飛行機を空に放る。わたしの手から離れた紙飛行機は、マフラーをはためかせる風に乗って、赤い雲に吸い込まれるように飛んでいった。緑色のフェンスを越えて、手の届かないところまで行ってしまってから、徐徐に徐徐にその高度を下げる。
「ふうん。」
「ね、飛ぶでしょ。」
「ああ。」
 だから?ナカジくんの眼鏡の奥は、多分そう言ってた。
「ナカジくんは、なんでこんなところで唄ってるの?」
「…別に。」
「みんな、聴いたらびっくりするよ、ナカジくん、歌うまいもん。」
「そりゃ、どうも。」
「どういたしまして。」
 それからまた、暫らく言葉が途切れて、今度はギターを弾く音もしないから、遠くから部活の音が聞こえてくるだけ。
 なんとなく深呼吸をしてから、ナカジくんに訊いた。
「なに、唄ってたの?」
「歌。」
「誰の?」
「…誰のでも、ない。」
「ふうん。」
 返ってくる言葉はくぐもっていて、わたしはなんだか勿体ないと思った。
「わたしも、歌、すき。」
 いつか誰かに届いてくれる?僕の飛行機
 口ずさむ、歌。わたしの声に、ナカジくんが驚いた顔でわたしを見る。
「わたしの歌、これ。」
 丁度チャイムの音が鳴ったから、わたしの声は掻き消えてしまったかも。六時を告げるチャイムの音は、同時に夕焼けの終わり教えてくれる。そろそろ赤い空の時間はお終い。
「わたし、もう帰るね。鍵、閉めなくていい?」
「そのままでいい。」
「分かった。ばいばい、ナカジくん。」
 手を振って、みたりして。
「ん。」
「また、聴きにくるね。」
 夕焼けを背にして校舎を出るとき、またあの叫ぶような歌声が聴こえたような気がして、わたしはポケットの中の屋上の鍵を握りしめた。
 失くさないように、しなきゃ。
 手を振り返してくれたときのナカジくんの顔が、ちょっと笑って見えたのは、わたしの気のせいだったかも知れないけど。
 帰ったら冷たい氷水を飲もう。もう夏は終わったけど、夕焼けが背中に暑いから。





050915〜拍手御礼として使用。051020再録につき細部修正。